ロドリゴ・カナレス博士
マイクロファイナンスとは何か?
イェール大学経営大学院 ロドリゴ・カナレス博士
実験がイノベーションの必要条件です!
イェール大学経営大学院准教授。組織行動論を担当。MIT博士(グローバル経済・経営、経済社会学)、MBA (MIT)。『世界の経営大学院の40歳以下の最優秀教授40名』(2014年)に選ばれる。個人の経歴、職位、地位が既存の組織構造にどのような影響を与えるかを研究している。主な研究として、メキシコの麻薬戦争の組織的な影響の分析がある。
1. あなたはマイクロファイナンス
(小規模金融)や社会事業の分野について、かなりの研究を行っています。何がきっかけで、比較的新しいこの分野にあなたの関心が向いているのですか。
まずマイクロファイナンス(貧困者向けの小口金融)は実際には新しい分野ではないということを述べて、回答を始めたい。マイクロファイナンスは1970年代から存在している。この分野に関してかなりの研究が行われてきているが、そのほとんどは経済学の視点からである。契約の構造、さらには歴史を通じて、どのようなインセンティブによって今まで、その効果を保っているのかを理解することが試みられた。したがって、経済的な現象として、マイクロファイナンスはそれほど新しくない。
私がマイクロファイナンスに関心をもったのは次のような理由による。マイクロファイナンスの契約の構造と動機についての研究が多いにもかかわらず、世界中のマイクロファイナンスの組織を実際に見渡せば、かなり異なる契約の構造をもっている。そして、その顧客とローン(貸し出し)担当者のインセンティブ構造も相当程度異なっていることが観察できる。それでも、なお、すべての組織が順調に業績にあげている。
私には、既存の多くの研究者が次の点を見逃しているように思えた。つまり、実質上、契約(の構造)が、マイクロファイナンスにおける世界中の多様性の大部分を説明しないにもかかわらず、研究対象がその点に集中していたということだ。驚いたことに、誰もマイクロファイナンスの組織的な側面あるいは組織構造を考察していなかった。この点はとても興味深い。なぜなら、マイクロファイナンスが、きわめて労働集約性の強い現象であり、また労働集約的なサービスであるからだ。こういう理由により、マイクロファイナンスに携わる組織のマイクロ力学は興味深く、複雑であるに違いないと考えた。それが、私をこの分野に引き付けた要素だった。
このように、誰も組織力学を考察していないという事実があった。それにくわえて、世界中で、マイクロファイナンスが、市場原理を通して貧困と戦う社会事業のモデルの例として認められる側面もある。私は、そうした考えに少し懐疑的だった。というのは、マイクロファイナンスが社会問題にどの程度の真の影響を与えていたかについて、かなり入り混じった結果を見ていたからである。この2つが、私がマイクロファイナンスの分野に関心をいだいた理由である。私は、なぜある組織が社会的影響を及ぼしているのか、理解しようと考えた。
第2の動機として、どのような組織構造が、マイクロファイナンがうまく機能することを可能にするのかを理解したいと考えたことがあげられる。組織論の学者として、私はこの質問に関心を持っていた。くわえて、発展途上国に興味があり、開発問題のより良い解決法を見出すことに関心をもつ者として、最初に、マイクロファイナンスに注意を向けた。こうした初期の動機が、最終的に社会事業の他の形態への関心に結びついた。マイクロファイナンスの研究を通して、どの社会事業モデルでも必然的に直面する緊張関係や矛盾に気づき始めた。
2. 感動を呼んだあなたの最近のTEDトークで、経済理論を活かし、メキシコの麻薬カルテルが実際に洗練された社会事業であることを説明しました。私たちは、あなたの分析から、いかに米国などの国において麻薬の消費を減らすかについて、どのような教訓を得ることができますか。
それについて2つのことを言いたいと思う。最初に、私たちが造り上げてきた世界麻薬マーケットの構造の組織的な示唆を理解するために、私は、経済学の原理を適用するだけではなく、もっと広範な社会学な原理も適用している。私の説明を2つの部分に分解しよう。
TEDトークで私が議論したのは次の点である。この問題の中心に目を向ける、すなわち、世界の麻薬取引や麻薬関連の暴力の動的力学の背後にある真の要因は何かを考えるとき、私たちは常に、(麻薬の)供給の問題としてこの現象を攻撃することに気づく。そして、私たちは常に、麻薬犯罪者を批難し追求する。実際、問題は、麻薬市場が何十万ドルという市場であることにある。たとえば、米国の麻薬市場は巨大である。米国における麻薬への需要は膨大である。麻薬を配達するリスクを負う覚悟を持つ人が得られる収益を考えれば、次のような不可避的な結論に行き着く。すなわち、麻薬に対する需要がある限り、どんなにリスクが高い仕事でもそのリスクを負い、麻薬を配達するために何でもやる人間が常に存在するであろうということだ。
麻薬市場の大きさ、市場から得る収益、需要の回復力を考えれば、そうした事実を否定することは不可能だ。麻薬愛用者が麻薬の品質や価格の大幅の変動を受け入れ、その麻薬を使い続けている。その結果、たいへん魅力的な需要になっている。供給サイドがその需要を満たす道を見出していく。このため、いくら供給サイドを制限しようとしても、それを止めることはでいない。なぜなら、そこには需要がいつも存在するからだ。
この前提からスタートすれば、麻薬の供給を止めるために私たちが行っていることのすべてが道理に反していることになる。麻薬の供給を根絶することなどできない。さらに、麻薬の供給元を追求することが非合理であることだけでなく、追求することで、事態はさらに悪化していることを悟り始めている。なぜか?もし、麻薬密売人を追えば、そのうち何人かは逮捕できるのは明らかだ。しかし、もし密売人をさらに追えば追うほど、革命的な動態力学を生み出す。すなわち、この巨大マーケットにドラッグを供給する者として生き残った者は、最も冷酷で攻撃的になる。そして、世界中で追われるなかで生き残る、最も戦略的に複雑な組織になることを確かなものにしてしまう。
事実、麻薬の供給源を追求する私たちの戦略によって、ますます暴力的になるこれらの組織をつくりだしている。つまり、私たちは、最も冷酷で、そして最も洗練された(麻薬)組織のみが存続できる環境を造り上げてしまった。こうした組織が生き残りをかけて戦っていることには疑いの余地はない。なぜなら、私たちが何ら対処していない巨大な市場が存在するからだ。私たちが忌み嫌う問題の兆候、すなわち、私たちが嫌悪する麻薬密売人を追求するうえで、彼らの存在理由を無視することにより、状況をさらに悪化させている。まさに、この状況は薬物耐性菌を造り出しているがごとくだ。間違った病気に対して不適切なタイミングで抗生物質を使用することにより、最終的に超耐性菌を生み出だすことになる。これが問題の一部である。
経済学の需要原理を適用し、動機とその需要が引き起こす市場構造を分析することにより、私たちは問題を悪化させていることに気がついた。組織が生き残るためには、相当程度洗練されなければならないという環境を作り上げた。その結果、その組織は市場の需要を満すために物流や運送ネットワークを構築するための戦略を考え抜いた。それだけでなく、自分たちの組織の存在理由を正当化し、メキシコ国内や国際市場のなかで制度化するために、非常に洗練された戦略を展開した。彼らは、洗練されたPR活動やメディア・キャンペーンを開発し、メキシコ市場で彼らが行っていることを制度化しようとしている。そして、その過程で、彼らは、とても重要な手法を使って、政府機関としての権限を弱めることに成功した。私たちは、単に、これらの麻薬組織を弱体化することに失敗しているだけではなく、実際に、それらと戦うためにツールとして利用しようとしている政府機関の権限を弱めているのである。こうした状況は、私たちの心得違いの対処法によって生み出されている。そして、それは、この問題の根本原因を理解できていないことに起因するのだ。
この状況から何を学ぶべきかと問われたとしよう。第1に、私たちの解決策はうまく機能しない。それは状況を悪化させている。したがって、第2として、この問題の実相についての議論を完全に転換しなければならない。もちろん、私も何が真の解決策になるのか確実に分からない。私は、麻薬使用の合法化に賛成していないが、他方、反対しているわけでもない。私が提唱しているのは、麻薬の供給源の追及が単に非合理であるだけでなく、非生産的でもあることを認めなければならいということだ。そこで、この問題に対処するために、何ができるか、何をすべきかに関して率直な議論を行わなくてはならない。その議論は、麻薬に対する膨大な需要の存在とそれを減らすことに対する無力性を認めるところから始めなければならない。それが出発点だ。その時点で、すべてを合法化するが、人々の消費を制限する方法を検討することを決めるかもしれない。換言すれば、「すべての麻薬密売人を投獄しよう」というような単純な考えをやめた方がよい。なぜなら、それは絶対に不可能だからだ。
私たちは麻薬関係の暴力を私たちから離れた場所で起こっている現象として考える傾向がある。メキシコでは、お互いが対抗し合って麻薬犯罪者(組織)が存在する。仮定の話だが、自分が麻薬の使用者または使用者の友達であり、あるいは麻薬の使用を容認したら、もしくは政策を改めるために何もしていないなら、あなたがその問題の一部であることに気がついてほしい。そうした人たちはこの問題を悪化させている。私のTEDトークのひとつの目標は、私たちが方針を変えるために、もっと積極的に行動する必要があるという認識を引き起こすことであった。ここでいう「私」とは、「すべての人」という意味だ。なぜなら、私たちのすべてがこの問題の責任を負っているからだ。
3. あなたの研究業績書を読んだときに、2010年のあなたの論文である“From Buddha to
the Boardroom: Leadership Education and the Four Pillars of Courageous
Leadership Type”(「仏陀から重役会議室へ:リーダーシップ教育と勇敢なリーダーシップの4つの柱」)に目が留まりました。この論文は具体的に何についての論考ですか。仏教の原則を経営者教育に適用する着想をどこから得たのですか。
その論文タイトルは2から3つの異なった意味での「言葉の遊び」である。論文に紹介された考え方は、私たちがMIT(マサチューセッツ工科大学)のDalai Lama Center for Ethics and
Transformative Values (倫理と変革の価値観のためのダライ・ラマ・センター、略してダライ・ラマ倫理センター)のために開発した変革的なリーダーシップに関する研修に由来している。私は、このセンターの運営委員会のメンバーである。倫理センターが設けている目標の一つは次のものだ。すなわち、リーダーがより倫理的で、価値観に導かれた、より多くの意思決定を行うことができるように、ツールと思考の枠組みを提供する教育研修を設計し、実施することだ。
もう一つの倫理センターの目標は、倫理や価値観に基づく研修を専門大学院に導入することである。具体的な大学院として、MBA(経営修士)、医学、法律(弁護士)と警察の教育課程などを想定している。その目標に向けた試行錯誤的な実験を通じて、倫理観や価値観に基づくリーダーシップに関する経営幹部向きの研修を設計することになった。この論文は、その研修を通じて導入を目指している4つの柱を議論している。「From Buddha to the Board room」(仏陀から重役会議室へ)という題名に関する質問であるが、研修自体は完全に世俗的で、非宗教的であるにもかかわらず、研修のなかで仏教からの手法を採用している。
ダライ・ラマ倫理センターの創設者兼センター長は、西洋でたいへん有意義な欧米教育を受けた実際の僧侶である。私自身も仏教の教えを実践しているので、多くの研修の内容は仏教の手法に依拠している。その中には、内省をするときに使う手法、参加者が自分の感情の状態を意識することを支援する方法、そして、周辺の人々との繋がりをもっと意識してもらうための方法、さらには、必要なときに、気軽に助けを求められるようになるために謙虚さを深める手法も含まれている。
論文のタイトルが言葉遊びであるもう一つの点を述べよう。この研修で発見できたより面白い点は、参加者を僧侶と、たとえばMBA学生の混成にすることで、とても強力な結果が生じたことである。これらの研修を実施した結果、僧侶の強みや弱みとアメリカのMBA学生の強みと弱みとの間に、とても面白い相補性が発見できた。私たちは、強みと弱みは殆ど完全に補完し合っていることに気づいた。僧侶はとても謙虚で、内観的であり、驚くほどの洞察を達成したが、そうした自分の考えを実践化することに苦労していた。「どうやって、この洞察を、今日実践できる行動に転換させればいいのか」という質問に彼らは悩んでいた。要約すれば、僧侶たちは、自分の洞察とリーダーシップを実践するための活動を構造化することに悪戦苦闘していた。
一方で、MBA学生は正反対の問題に苦しんでいる。彼らは行動をとり、活動を組み立て、何かをやることが得意である。しかし、彼らは、内観と自分に対する洞察を結びつけることが非常に苦手である。MBA学生は、多くのことを(総合的に)見渡すように訓練されているので、この自分の心との接近に苦労する。僧侶とMBA学生を混ぜると、とても面白い方法で、お互いに補完できる。これらの研修は素晴らしい経験であり、論文のタイトルのもう一つの源泉ともなった。このように、私たちは、この研修に仏教の手法を折り込み、その過程で、いくつかの興味深い結果を得た。
4. あなたは2012年8月のインタビューで、既存組織が変化を伴う革新に抗うのが自然だと述べています。組織と同じように、ある国々、特に日本は、とりわけ、動的かつ劇的な変化に抵抗する傾向が強いといえます。日本人も日本の組織も、リスクの高い機会の追求よりもリスクの低い現状維持を好みます。もちろん、日本は、アベノミクスの導入によって最近もたらされている僅かな改善も見受けられます。とはいえ、依然として長期化した不況という特徴をもつ「失われた20年」の悪影響に悩まされています。日本政府、日本企業、日本人が、経済の状況と、世界市場における日本の全体的な競争力を改善するために、より革新的になる必要があります。そうした日本に対して、あなたはどのような提案をしますか。
組織に関する私の授業は13回のセッションで構成されており、広い範囲のトピックをとりあげる。その授業のうちのひとつは実験と失敗についてである。私がそのセッションを行うとき、いつも学生に次のように話す。「この13回の授業の中で、1回のトピックしか皆さんの記憶に残らないかもしれないことを分かっている。私は、全ての講義を慎重に準備するが、皆さんはそのほとんどを忘れていくことを認識している。運がよければ、皆さんは一つのトピックは覚えている。その場合、皆さんに、実験と失敗の重要性についてこの授業を覚えておいて欲しい」。革新(イノベーション)に弾みをつけるうえで、実験と失敗がいかに重要かを把握さえすれば、イノベーションに関係するすべての課題に対応できるようになる。あなたは、より実験的になるように組織構造を発展させることができる。また、失敗をより受け入れやすくするために、どのような類型の組織文化を醸成する必要があるのかを理解できるようになる。
これらすべての意思決定は、革新を促進するうえで「実験と失敗の重要性」を深く受け入れることにより、なされる必要がある。その理由は、イノベーションとはそれ以前に試みられたことがないことをする取り組みという点にある。その結果、失敗するかどうか、を選択することは不可能となる。それ以前は誰もあなたが試みることをやったことがない。だから、あなたは失敗する。
このとき導き出される質問は、あなたがどのように失敗するかということだ。小規模で管理された方法で、前進できる基本的な何かを教えてくれ、速い進展を可能にしてくれる。そのような小規模の形で失敗するのか。あるいは、あなたが進展する能力を完全に阻むように、大規模な失敗をするのか。革新を追及する際に、失敗するかどうかの代わりに、どのように失敗するのかが唯一の選択肢だとしよう。ここでの教訓は、あなたは、可能な限り、何が効果的で何がそうでないかを把握できるような、小さくて、低コストの実験を設計すべきだということだ。
私は日本に詳しくないが、多くの日本人の学生を指導している。また、私の学生の多くはアジア人であり、私にはアジアで教えた豊富な経験もある。多くの国の文化と歴史において、そして特に日本では、立場がとても重視される印象を受けた。つまり、社会制度において、ヒエラルキー(上下関係)が大きな役割を果たしている。
同時に、「失敗することのコスト」がとても高いことにも気づいた。誰かが失敗すると、大騒ぎになる。また、失敗には深い羞恥心がともなう。この2つの要素が合わされば、人々は絶対に革新的な何かを試みたくない完璧な環境を造り上げてしまう。イノベーションは、一般的に、市場か消費者に近いところにいる、地位が低く、世界における問題をより詳しく認識している人々から生まれる。地位の高い人間は、一般的に「現実世界」から遠く離れているので、問題に対応し革新を可能にする洞察を得ることが困難な状況にある。
また、前述のとおりイノベーションは実験と失敗を要求する。ヒエラルキーと高い地位が中心的価値観であり、どんな失敗もとてもひどくて恥ずかしい行為だと見なされる社会システムの場合、革新に対して強力な抵抗力が発生する最適な条件が生まれる。
私なら、日本で、エンパワーメント(権限付与、権限委譲)を促進するだろう。私なら、役職(上下関係)に関係なく権限委譲をするだろう。そうすることで、(組織が)より実験的になることもできる。また、失敗の解釈を微調整するだろう。その組織では、失敗とは「(個人の私ではなく」私たちが失敗した」あるいは、「まあ、まだ成功していないが、この失敗からいくつかの重要な教訓を学んだ。次の実験に適用しよう」とどちらの解釈をしているか、だ。
失敗が許容されない組織では、社員は全てが完璧であることを確かなものにするために全力を尽くす。イノベーションは必ず起こるという性質のものではない。なぜなら、イノベーションが発生しているとき、私たちは何が起こるのかを理解していないからだ。最終的に、失敗の規模がより大きくなると、失敗を嫌う組織文化を強化してしまう。それぞれの失敗が大きくなり、失敗のコストに対する意識をさらに強調してしまうからだ。その結果、人々は失敗をさらに避けようし、より完璧な解決策を求めてしまう。こうしたことはうまく機能せず、より大規模な失敗につながり(さらに完璧なソリューションを追求するというように)、自己強化的な制度を生み出してしまう。
ここであなたがすべきなのは、この悪循環から抜け出し、社員たちがもっと実験的になることを援助することだ。くわえて、すべての者が失敗をどのように経験するかに関する文化を変えたいとも思うだろう。私は、「失敗を讃える」考え方を支持しているわけではない。しかし、組織文化が、失敗というものに価値を見出す必要があると考える。私たちは失敗から学び、その教訓を共有すべきである。そして、失敗を、問題を解決するための決定的な段階として認識すべきなのである。
5. あなたは、イノベーション問題に創造的に取り組んだ企業の例として、IBM社をとりあげました。グーグル、アップル、アマゾン、フェイスブックの各社は、すでに、あなたが提案する社内競争と組織階層横断的なチームの組成を導入したように見えます。にもかかわらず、これらの4社は、IBMのようなイノベーション問題に直面すると思いますか。これらの4社が、現在のように高いレベルでイノベーションを維持するために、その他の方法はありますか?
これはたいへん面白い質問である。一言で言えば、私たちには分からない。
IBM社は倒産寸前であった。IBM社はポラロイド社やコダック社ともう少しで同じ運命をたどるところだった。しかし、ある時点では、CEO(最高経営責任者)、取締役会、そして経営陣が問題を把握し始め、IBM社の業績を引き下げていた全ての要因を取り除く決意をしたのである。それは極めて困難なことだった。なぜなら、それらの多くの事業が多くの収入を生み出していたからだ。それらの事業の各分野が損失を生んでいたわけではない。ある時期、これらこそが中核事業であり、その時点でもまだ多くの収入を生み出していたのである。これらの事業分野が収入の源だったからこそ、これらを継続しながら、同時に、経営陣は次のことを悟った。つまり、そうした事業が収入を生み出しているからこそ、IBM社を取り巻く自社の新しい営業環境を構成する「変化し続けている世界」に合わせて、自社の既存事業を維持しながら、さらにビジネス・モデルを変革することが不可能だと。しかし、極めて難しかったにも係わらず、IBM社はこれらの事業分野を取り除く覚悟をした。
同僚であるディック・フォスター氏と、イノベーションについてよく話し合っている。私たち二人とも同意しているのは、成功している既存企業の大きな課題が、革新の継続と会社の存続に必要な複数な要素のバランスを保つことにある点である。第1に、企業はオペレーション上の優秀さを維持しなくてはならない。現在の収入を生み出している事業のすべてをうまく遂行しなければならい。企業の主な収入源として、それらの活動は多くの資源と活力を吸収していく。
しかし、卓越するレベルで運営することが企業に求められる唯一のことではない。事業の選択肢も創造することも必要である。企業は、現在の運営にイノベーションを漸増的に加えることに投資するだけでなく、将来に向けた新たな事業選択のポートフォリオを創造するための投資活動も行わなければならない。もちろん、そうした投資活動の最終価値を予想することは不可能だが、それが2つ目の必須事項である。
3番目は組織の財務上のコントロールを適切に行うことである。要約すれば、企業は、運営上の優秀さを維持し、事業の選択肢を創造し、財務上の支配も同時にしなくてはならない。
私は、アマゾン社には少し懸念を抱いている。同社は、興味深い運営上の優秀さを構築したとはいえ、財源上の適切なコントロールがなされないで事業運営されているからだ。同社は絶えず赤字を計上している。今のところ、株式市場はアマゾンを猶予しているが、株式市況が後退すると、同社に対する厳しい合図が発せられるかもしれない。そのような合図が出れば、アマゾン社は窮地に陥る可能性がある。なぜなら、同社は、財務的に健全な運営を行っていないからだ。
企業にとって必要な4つ目の点は、事業を取り除き、交換する覚悟をもつことである。かつて中核事業であったが、活力と機動性を保つ可能性が制限される事業分野を追求するという考えは捨て去るべきであろう。そうした事業がまだ価値のあるうちに売却したほうがより。これを実施するためには多くの自制が必要となる。この意味で、とても興味深い組織が3M社である。同社は、期待成長率を下回っている子会社や事業を、絶えず売却し、閉鎖しており、一方で常に新規事業を立ち上げている。これらの活動は3M社の規律の一環である。
アップル社も同じ意味で注目されるべきだ。同社は、もはやダイナミズム(力強さ)を失った商品と事業分野を閉鎖することに何ら疑念を抱かない。商品の販売を中止することで顧客を苛立たせてもアップル社は販売を中止する。グーグル社も、業績のよくない事業分野を閉鎖することに対して、比較的厳しい規律を守っている。
私はフェイスブックを心配している。具体的には、同社は企業のアイデンティティ(独自性)を特定のサービスと商品に緊密に結びつけすぎている。一つの商品によって自社の独自性を定義する企業は自らを脆弱なポジションに置いてしまう。
すべての商品と同じように自社商品が製品ライフサイクルを経るにつれて、その商品は収益を生み出す能力を失ってしまう。特定の商品によって自社の独自性を定義する企業は環境が変化するにつれて、環境適応に関して大きな困難に直面する。
自社の独自性が顧客にサービスと解決策を提供する基盤のうえに構築されているなら、市場の変化に対応するために、商品販売を中止し、入れ替える意志がはるかに強くなる。(前述のとおり)アップル社が容易にそれを実施していることが確認できる。フェイスブックが真にこの方法を採用しているかどうか私は分からない。フェイスブックが努力している兆候はあるが、同社のアイデンティティは、社名にもなっている「フェイスブック」という本来の商品に結びついていると私は思う。商品として、フェイスブックが市場から消え始めたら、同社はいくつかの問題に直面するだろうと私は考える。
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